SELECTION
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非常勤講師賞(飯山千里・高橋堅)
武井翔太郎
擬避難タワー -擬洋風建築を始まりとし-
卒業設計

擬洋風建築が文明開化を端的に示した錦絵を媒体として広まっていったように、松崎町の歴史、文化、記憶が端的に示された5つの錦絵風の絵を描き、それをデザインコードとして避難タワーの設計を始めました。江戸から明治期にかけての歴史、文化、記憶が色濃く残る松崎町で、その時代を映し出すように現れてきた擬洋風建築の岩科学校と、「伊豆の長八美術館」などの幻影のような建築群を町の各地につくり上げた石山修武さんのまちづくりを起点とした避難タワーの再考を進めました。私はこの町の「逃げ地図」を計画し、避難時間が6分を超える地域に避難タワーを5つ設計し町全体の避難時間を全避難所から4分以内圏内にすることを目標としました。

この町の風景を守るため、巨大な避難タワーの持つシンボル性と町内に複数建設しなければならないという性質を逆手にとり、町の個性を宿らせた避難タワーを設計します。石山修武さんは、擬洋風建築の持つ「職人が西洋の文化を自家薬籠中の物とするための誇示」、「異文化の様式の持つ形態と職人技能との接触によって職人が刺激されたこと」などの痕跡を読み取り、土着の技術や歴史、町の風景を増幅させるように「伊豆の長八美術館」をつくりました。また、町の中央に流れる那賀川では不思議な景色が水面に映し出されるという逸話があります。水面に映し出される不思議な世界を現実の世界に映し出そうと橋や時計塔をつくり、水面の中の不思議な風景を現実の世界に再現しました。水面の中に映し出される「夢」に触れることができるよう、現実に「夢」を埋め込んだのです。また民芸館のギザギザした鏡面のガラスに映し出される景色にも那賀川の水面で映し出される不思議な世界が映し出されています。遠い何かに思いを馳せるような、コスモロジーのような考え方をもち、松崎町では土着の技術や歴史、町の風景を増幅させるようにまちづくりが行われてきました。
設計プロセスとしては、まず松崎町の文化や歴史、記憶を示す5つの絵を描きます。次に、地方に西洋の文化を伝える役割を担った錦絵のように、松崎町の個性を表現したこれらの5つの絵からデザインコードを抽出しました。また内外装は職人の手仕事による左官仕上げで、町に根付く技術を継承しています。

ひとつ目の絵は未来を望む塔です。伊豆半島は流刑地とされていた歴史を持ち、上流の文化が同時代的に伝わっていました。松崎町にも何人かの知識人が流れ着き、教育に力を入れる風土が育ちました。数々の先覚者を輩出した松崎町から巣立ち、親元を離れ、都心へと向かう様子を鶴で表現し、また松崎町に戻っておいでという思いを込めました。

ふたつ目は海を望む塔です。海が玄関口だった松崎では、養蚕が盛んで、他より早く収穫できる早場眉は全国で生糸の相場を決める指標になるほど質が高く、海外にも輸出された歴史があります。かつては伊豆水軍の根拠地でもありました。このように、海が玄関口だったという記憶を継承するように表現しました。

3つ目は火の見櫓の塔です。火の見櫓は戦時中に鉄供出の対象となり撤去され、二度崩れ落ちた記憶を持ちます。この街を守るのはこの街に住む我々だという思いの象徴として存在していていた火の見櫓が、再び津波からこの街を守る存在になることを願いました。

4つ目は弘法大師の塔です。弘法大師空海の伝説が残る富貴野山と高野山のふたつの山があります。修行中の弘法大使と背後の6つの光の筋、そして2つの山へと昇る道中を表現しました。

5つ目は産業の塔です。先人たちが歩んできた産業の生産物を表現しています。

錦絵や擬洋風建築が文明開化を示し新たな時代に向かっていったように、松崎町の歴史や文化、記憶などの古さを伴って前に進んでいくための表現をデザインし、未来の松崎町の姿を提案しました。

講評
木島千嘉

必要に迫られて各地にできている避難タワーによって多様な風景をつくろうとしている点はおもしろいと思います。灯台や給水塔なども地方によって様々なデザインがありますね。鉄骨のスロープや階段のデザインにおいても新たに地方色を生み出せたら良かったと思います。

廣部剛司

擬洋風建築は大工さんたちが見様見真似で生み出した様式で、独特のおもしろさがあります。左官のおもしろいところのひとつは、下地の存在が曖昧になることなので、スロープや階段、手摺などを左官で塗り込んでしまうなど、職人さんの技術を活かせるよう、技術や歴史、産業を含めた建築化まで考えるとより踏み込んだものになったと思います。