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「2018年日本建築学会大賞(斎藤公男)」受賞インタビュー:構造と空間デザインの融合 -学生とつくり続けてきた50年間
by SHUNKEN編集部

「2018年日本建築学会大賞」 受賞インタビュー

斎藤公男 名誉教授 × 岡田章 教授 × 宮里直也 教授

(インタビュアー:廣石秀造 短大助教(現:建築学科准教授)、大西正紀(mosaki))

 

- 「2018年日本建築学会大賞」の受賞おめでとうございます。今回の受賞は、単体の作品や研究についての受賞ではない、とうかがいました。

斎藤:今回評価いただいた内容にはふたつあります。
ひとつは 「教育・研究・設計の総合的な 実践」です。 これまで約so年間にわたり、主に大学の研究室を通して、多くのプロジェクト(設計) を研究と連動させて行ってきたと同時に、さまざまな教育活動を行ってきました。その軸のひとつが 「習志野ドーム」(下写真)でした。
もうひとつは、 「アーキニアリング・デザインの理念に基づく建築学会活動への貢献」です。 これは前者の延長で、日大や研究室が学会をバックアップするような形で、 「アーキニアリング・デザイン展」というものをさせていただいたものです。 研究室としてサポートしてきている 「学生サマーセミナー」もこれに含まれます。 通常、大賞はひとつの研究などに対して贈られるものなので、今回このような形で受賞できるとは思ってもいませんで した。

「習志野ドームの様子」

 

-さまざまなデザインのドーム空間を、毎年学生たちが発案して実物をつくる 「習志野ドー ム」は、いつごろからはじまったのですか。

斎藤:「習志野ドーム」は1993年から。 もう25年経ちます。 しかし、それ以前にも、建築学会として教育的な試みを行っていました。 最初は新潟などの地方をみんなでまわって、各都市で子どもたちにレクチャーやワークショップを積極的に行っていました。 すると、小学生くらいの子どもたちがとても楽しんでやってくれる。 講義を聴いて、建築を、将来、 勉強してみたいという子どもが出てくるほどでした。

岡田:当時、建築の分野へ進む若い人が少なくなっていました。 そこで、その魅力を伝えるために子どもを楽しませてあげようという試みが、建築の構造の分野では同時多発的に行われていたのです。

斎藤:建築には見えない力学のようなものがあります。 そこに教えづらさがありました。 デザインと構造の結び付きを教えることも、素材の原理などを教えることも難しいので、いつも悩んでいました。 でも、そこをブレイクスルーしたかったのです。 割り箸や紙を使って張弦梁の模型をつくったり、いろんなペーパーストラクチャーをつくるワークショップを行いました。 一連のこういった試みが、 「習志野ドーム」へとつながっていきました。当時 「習志野ドーム」には、高宮眞介さんや横河健さんといった日大出身の建築家の方々はもちろん、本杉先生や今村先生など、いろんな方が関わってくださいました。この活動は、国際的なIASS (国際シェル・空間構造学会)・坪井賞や建築学会·教育賞も受賞することができました。宮里先生が大学院 生のときには、日本建築学会の大会会場に10以上のドームを出現させました。これは、 大きな話題になりました。

- 何よりも学生自身が1分の1の実物をいちからつくり、できたものを体感できることがエキサイティングです。 膜やそれを支える構造材には、やはりその時々の最先端の技術が詰め込まれてきたわけですよね。

岡田:究極の最先端がいつも集まっています。「習志野ドーム」のルールは、 3日間の期間中のみ建てていられれば良いというものです。だからこそ、実際の建築物では使えない最新の素材や技術を使うことができるわけです。でもその分、面白い空間をつくることが求められてきました。

宮里:当時も今も、ケーブルや膜構造をここまで実際に扱える研究室は、他大学も含めてないのではないでしょうか。

岡田:「習志野ドーム」のようなことを実施する際に、日大理工建築にはあらゆる分野の学者がいることも大きな利点でした。

斎藤:それは大きいです。 何かプロジェクトをやっていると、他の先生の琴線に触れる。そこから新しい関係が増えて、より社会とつながり、いろんな経験ができる。 教員の人数が多いメリットは、そこにもあると思います。

- しかし戦略的に研究室の人数を最大限に活かしてプロジェクトに取リ組む研究室は、 空間構造デザイン研究室以外にはないように思います。

斎藤:そうかもしれません。 これからは岡田先生たちもそのことをもう少しアピールしても良いのかもしれません。たとえば、毎年建築学会で行っている 「学生サマーセミナー」には200名ほどが集まるのですが、その運営サポートも空間構造デザイン研究室の学生たちが、ずっと行っています。

岡田:他大学と一緒のプロジェクトに取り組 むときに見ていると、他大の方々は、必ずまず絵を描いて、 計画して、さぁ、誰がつくる?となるのですが、うちの研究室の学生たちは、まず実際に手を動かしてつくろうとする。 そこがすごいと思います。

斎藤:昨日もたまたま研究室の卒業生と話す 機会があったのですが、みんな仕事で大変なときは、「習志野ドーム」や「学生サマーセミナー」のことを思い出すって言うんです。 それくらい卒業後も、彼らのパワーの原点になっているんですよね。

- どの活動も学生たちは、やらされている感 がまったくなくて、自分で考えて行動しているという感覚が常にあるのでしょうか。

斎藤:さらに手を動かしてつくるだけではなく、運営したり、学会などと具体的に折衝したり、大人の世界ものぞき見しながらプロジェクトを進めていきます。 そういうことがあると、 先生も指導しやすいですから、まさに実学としての教育の場としても良いものになっているのです。

 

空間と構造がタブーの時代からの脱却
その原点は「ファラデーホール」

- 日大理工建築の構造の授業では、ペーパーストラクチャーをつくるものがありますが、あれはどのようにはじまったのですか。

岡田:構造計算では、計算尺というものがあって、それまではその使い方を教えていたので すが、もっと楽しく教える方法はないかと、 模型をつくってオモリを載せるということで、斎藤先生が教えはじめたんです。

斎藤:僕が30代後半のときで、「ファラデーホー ル」(1978) の設計を進めながら張弦梁について考えているころ、ペーパーストラクチャーをつくってオモリを載せる授業をやりはじめました。1976年ごろでした。当時、岡田先生は学生で、 僕はデイテールの図面をT定規で描いていました (笑)。
もっと以前、 僕が大学卒業後には、1964年の東京オリンピックヘ向けて 「代々木第一 体育館」(1964)のような建築が、海外では 「シドニー ・オペラハウス」(1973) などが誕生しました。 まさに構造とデザインが交わる時代の到来でした。
しかし、1970年ごろを境にして、ポストモ ダンの考え方が台頭してきました。すると一気に構造とデザイン、あるいは空間と構造という話がタブーになってしまったのです。 私たちが取リ組んでいたような研究も、建築界では誰も話題にしない。 構造が表現力を持っては駄目だという空気がそこにはありました。そのような中で実現しただけに、 「ファラデーホール」は、ひとつのブレイクスルーだったのです。 私たちがアクティブに動きはじめた原点でした。今考えると、ポストモダンの時 代だったことが、逆にラッキーだったとも言えるかもしれません。
そのあとに 「理エスポーツホール」(1985)を設計して、よりハイブリッドな概念を押し出していきました。そのころは、部材のハイブリッドはありましたが、システムのハイブリッドはありませんでした。 当初は、周囲からそんなハイブリッドは19世紀に既にあったとさんざん言われましたが、今の時代にこそ大事なんだと言い続けました。 結果、その後、ヨーロッパで評価されていくことになるのですが、その状況も含めて面白かったですね。

宮里:ケーブルのような新しい素材がちょうど出てきた時代というタイミングもあって、ハイ ブリッドな概念が加速していきました。

岡田:評価されない時代が長かったですね。それまでは、日本では空気膜構造が全盛期の時代だったのですが、1986年の 「IASS大阪」を契機にハイブリッド熱が高まりはじめました。

斎藤:そのとき、私たちが出した論文がハイブリッドに関わるものだったのですが、偶然、 ドイツのヨルグ・シュライヒさんが出された論文もハイブリッドに関するものでした。 海外の 「黒船」からも同じような視点が出てきた ことで、 一気にハイブリッドヘの評価が高まっていきました。
建築はファッションのように常に時代の流行があるものなので、 その時代にのみ評価されて終わるものです。 しかし、 私が丹下健三さんの傍で設計を見ていた 「代々木第一体育館」から、 「ファラデーホール」や 「理エスポーツホール」といった日大キャンパス内の建築物、 それ以後の試みを含め、 50年間に関わってきたプロジェクトは、 すべて連綿とつながっています。 そして、 その根底には普遍的な考えがありつつも、 いつも学生たちと一緒につくりながら、 自分たちの建築の世界が広がっていったことをとても誇リに思います。

「ファラデーホール」内観。(photo=坂口裕康)

 

- リアルに手を動かしながら1分の1のものをつくり、 一方で、 構造計算を行いながら、構造の細かなディテールまでを研究していく、その振れ幅が、学生たちをよリ惹き付けているのだと感じました。

宮里:私たちの研究室では、すべてのプロジェクトに学生が関わります。特に構造の実験をほとんどの大学院生が行います。そういった こともある程度プレッシャーはあると思いますが、1分の1の実物を建てていく場面は、学生たちは楽しい反面、建たせなくてはいけないというプレッシャーが、さらに大きくのしかかかっていると思います。

斎藤:体験し続けることは大変なことですが、 大切なことです。 先日、 久し振りにテンセグリティ構造の 「虹のシザーズ」をつくろうとしたら、 部品が見つからなかったり、 どうやって建てるんだつけ?と方法がわからなくなっていました。
たとえば、日本の「祭り」というものは、毎年、継続し、つくりあげていくことで、 技能や技術が伝承していくものと言えます。 だから、一 番大事なのは、 継続することだと考えています。 構造の分野でも、それによって常に仕組みと仕掛けが共に存在し続けることができるからです。

- 「アーキニアリング・デザイン展」は、 そもそも何が最初のきっかけだったのですか。

斎藤:2000年に私が建築学会の会長になったときに、学会の中で、もう一度きちんと 「デザイン」というものを意識してほしいと願って、 “建築学とデザインの融合’’というメッセージを発信しはじめました。 言うだけでは駄目なので、それを何とか形にしなくてはと思い、ふたつのことを行いました。
ひとつが、「建築デザイン発表会」というものでした。 デザインという言葉を学会の中に落とし込むために、 学生でも研究者でも誰もが参加できるデザインに関する発表の場をつくりました。これは、毎年、建築学会の大会で継続して行っています。
もうひとつが「アーキニアリング・デザイン 展」(AND展)です。 当時、 耐震偽装の 「姉歯事件」が起こったこともあって、 建築への信頼を取り戻しながらも、 魅力を改めて発信しなくてはと考えていました。そのような中で、それには模型を使うのが良いと思いました。建築がつくられる仕組みを見せるタイプの模型は昔からあって、 それこそ丹下さんの下で、「代々木第一体育館」の設計を手伝っている ときは、 まさに仕組みを見せる模型を30個くらいつくっていました。 また、通常、建築模型は完成形をつくりますが、 我々は自分たちの作品を展示するときにも、 何度か仕組みの模型だけを展示したことがありました。 建築がつくられる仕組みを示す模型をつくるということは、そう簡単ではあリません。だからこそ、全国の建築学生たちに挑戦していただくこと に大きな意義があると思いました。

-最終的には、 いくつの建築物を取り上げたのですか。

斎藤:150を越えました。 全国の建築学生の皆さんに参加してもらうとは言え、やはり日大の学生がたくさんいるからこそ実現したことでもありました。実際、150のうち100近くを日 大の学生諸君につくってもらいました。
実際に150もの建築のつくられる仕組みを表現した模型が並ぶと、歴史や様式も飛び越えて、すべてをフラットに見ることができます。たとえば、 エッフェル塔の横にスカイツリーが並ぶと、今も昔も同じ普遍的なことがいっぱい見えてくるんです。 人間の知恵や情熱もそうですよね。
「アーキニアリング・デザイン展」では、空間構造デザイン研究室が目指してきた ‘‘空間と構造の融合’’を、 ひとつ形にすることができました。 その後、 9年間のうちに国内を12箇所、 海外(台湾·中国)を7箇所巡りましたが、今でも建築学会の会館ギャラリーで、毎年 「ミニAND展」を行っています。

2010年に、 丸ノ内の丸ビルにて行った「アーキニアリング・デザイン展」

 

-今回の受賞で、 改めて今後について考えることはありますか。

斎藤:海外においても目まぐるしく建築の世界は発展していく中で、 日本で建築の面白さを、もっともっと発信していかないといけないと思っています。 あとは、これまで世界の建築や歴史に関する本はいくつか書きましたが、今回お話しさせていただいたような、空間構造デザイン研究室としての活動は、まだまとめていません。それはしっかりやらなくてはいけないと思っています。

岡田先生(左)、 宮里先生(中央)共に斎藤先生(右)の研究室の出身。 斎藤先生に出会って岡田先生は45年、 宮里先生は21年になる。

 

 

さいとう•まさお
1938年、 群馬県生まれ。1961年、 日本大学理工学部建築学科卒業。1963年、 同大学院理工学研究科博士前期課程建築学専攻修了。1973 ~ 91年、 同大学理工学部建築学科助教授。1991年~08年、 同大学理工学部建築学科教授。2007年、 第50代日本建築学会会長。2008年、 日本大学名誉教授。

おかだ•あきら
1954年、 徳島県生まれ。1977年、 日本大学理工学部建築学科卒業。1979年、 同大学院理工学研究科博士前期課程建築学専攻修了。1982年、 同大学院 理工学研究科博士後期課程建築学専攻単位取得退学。1982 ~ 90年、 竹中工務店勤務。1990年~、 日本大学理工学部建築学科。

みやさと・なおや
1975年、 宮崎県生まれ。1998年、 日本大学理工学部建築学科卒業。2000年、 同大学院理工学研究科博士前期課程建築学専攻修了。2003年、 同大学院 理工学研究科博士後期課程建築学専攻修了。2003 ~04年、 同理工学部建築学科副手。2004 ~ 08年、 構造計画プラス ・ ワン勤務。2008年~、 日本大学理工学部建築学科。

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