受賞者インタビュー
「2023年日本建築学会業績賞」受賞記念インタビュー:田所辰之助[教授]
by shunken web

分離派建築会の活動を多面的に解明した調査・研究・展覧会

インタビュイー=田所辰之助[教授]、勝原基貴[金沢工業大学・講師]

インタビュアー=佐藤慎也[教授]、古澤大輔[准教授]

 

建築史・建築論研究室の田所辰之助教授が、2023年日本建築学会賞(業績)を受賞しました*1

この賞は、近年中に完成した学術・技術・芸術などの進歩に寄与する優れた業績(論文・作品・技術部門以外)に贈られるものです。

今回の受賞は、分離派100年研究会のメンバーとしての受賞であり、同じく研究会のメンバーであり、本学科の卒業生である勝原基貴さんと共に田所教授にお話をうかがいました。

「分離派100年研究会」発足の背景

 

古澤

日本建築学会賞業績部門の受賞、おめでとうございます。

 

田所・勝原

ありがとうございます。

 

田所

分離派100年研究会は2012年にスタートしました。建築学会の近代建築史小委員会で連続シンポジウム(「近代建築史研究の最先端-近代(日本)×近代(西洋)」)を当時企画していたのですが、その際に京都大学の田路貴浩先生からお声掛けいただきました。

最初は10名程度のメンバーで、1年に2回ずつ研究会を実施しました。春は京都、秋は東京で、4年間実施しました。その後、少し規模を大きくして、同様に年2回ずつ、やはり4年間で計8回の公開シンポジウムを行いました。合わせて8年間となりますが、関連する分野からさまざまな識者の方々をお呼びして、分離派建築会をめぐって多様な論点を浮かび上がらせていきました。

 

佐藤

勝原さんは、どのような流れでこの研究会に携わったのですか。普段の研究なども教えてください。

 

勝原

私は日本大学を卒業して、文化庁の国立近現代建築資料館に勤めました。現在は金沢工業大学で講師をしています。博士論文で、岸田日出刀について研究をしていたので、分離派の少し下の世代の建築家を専門としています。研究は、建築資料をアーカイブ化して、それをベースに近代建築史や建築家について再検討するというスタイルで行っています。

岸田が大学生になったときは、ちょうど当時の大学が9月はじまりから4月はじまりに変わる変換期だったんです。そのため、1年生は半年で1年分の授業を行わないといけない。夏休みに先輩たちがそのフォローを自主的に行ったのですが、それが分離派世代の学生たちだったのです。岸田自体が非常に彼らの世代と接点もありながら違う道を歩んでいった人間だった。

そういった点を研究会に参加して、私自身、研究発表をしながら一緒に分離派とはなんだったのかということを考えていきました。自分の専門分野である建築資料のアーカイブという点から、全国的に調査した分離派の資料データベースをつくったり、ホームページで情報発信をしたりしました。建築の歴史展示を中心にいくつか行ってきていたので、今回の分離派の展覧会でも学術協力という立場でサポートさせていただきました。

 

田所

分離派100年研究会のホームページは勝原さんが作成してくれました。また、本橋仁さん(金沢21世紀美術館学芸員、元京都国立近代美術館・特定研究員)と一緒に展示や図録制作も担当してくださいました。

 

古澤

これまで分離派のアーカイブは、なぜ行われてこなかったのですか。

 

勝原

そもそも建築資料の重要性が認識されたのは、ここ10年くらいの話です。企業や大学がそれぞれ保管していたのですが、全体像が見えてこなかったし、どのくらいの資料が残っているのかを誰も把握していなかったんです。今回も長い時間をかけて資料調査を行ったのですが、意外に多くの資料が残っていました。

 

 

学生6名で立ち上げた「分離派」とは?

 

1920(大正9)年、東京帝国大学(現在の東京大学)建築学科の卒業をひかえた同期、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨巳、森田慶一、矢田茂、山田守の6名によって結成。その後、大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象が加わる。1928(昭和3)年まで作品展と出版活動を展開。日本で最初の建築運動と言われている。

 

田所

卒業を控えていた彼らは、1920年2月、東京帝国大学の学内で秀作展を行うんです。その後、同年の7月に「第1回作品展」(東京・白木屋)を開催し、分離派建築会の立ち上げとなりました。これらの作品展を通じて発表された作品が、当時は非常に先鋭的で、新鮮なものだったんです。

彼らはその際、『分離派建築会 宣言と作品』という作品集も出版します。そこには、「我々は起つ。過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために」と記されていますが、ここでいう「過去建築圏」とは、ヨーロッパのゴシックやルネサンスなどの様式建築のことを指しています。明治の開国以来、日本に導入されてきたヨーロッパ由来の歴史主義の建築から「分離」し、「新建築圏」を新たに立ち上げていこう、というのが主眼でした。

卒業間近とはいえ、学生の立場でこのような活動をはじめたこと自体がとても珍しかった。日本の近代建築運動のはじまりと位置づけられています。DOCOMOMO JAPANは「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」の選定を毎年行っていますが、そこでは作品の竣工年を1920〜79年までと条件づけています。1920年が起点とされているのは、分離派建築会の結成がひとつの契機となっているわけです。

 

 

『建築は芸術でなければならない』

 

古澤

過去の様式美から逸脱しようと試みた6人の学生がグループを組んだということですね。なぜ、“分離”していく必要があったのでしょうか。

 

田所

「建築は芸術でなければならない」という考え方が背景にあるといわれています。当時、この日本大学理工学部の前身でもある日本大学高等工学校の初代校長、佐野利器などを中心に構造派といわれる勢力が台頭してきた時代でした。

鉄筋コンクリート造の耐震理論が進み、「建築非芸術論」などともいわれる極端な考え方も登場していました。「建築は科学である、構造解析のプロセスに従っていれば、建築は自動的につくられる」などといった考えも生まれてきて、分離派建築会を結成することになる彼らは若いながらもこうした流れに大きな危機感を抱いていたのでしょう。

過去の建築様式に基づく設計手法、また、科学を極端に絶対視するような建築の捉え方、その両者からの分離を目指そうとしていたのだと考えられます。

 

 

分離派100年研究会のメンバーについて

 

勝原

研究会を発足した時点で、ちょうど分離派発足100周年となる2020年に何かしらアウトプットしたいという目標を持っていました。

 

田所

勝原さんは岸田日出刀の研究をしていたので、私が推薦して、第6回目の研究会(2014年)から参加していただき、岸田に関する講演を行ってもらいました。岸田はまさに、大正と昭和の建築をつなぐ人物です。

 

古澤

そうなんですね。研究メンバー16名は最初から決まっていたんですか。

 

田所

すこしずつ増えて、最終的に16名となりました。田路さんが大村理恵子さん(パナソニック汐留美術館・主任学芸員)と知り合いで、東京での展示はパナソニック汐留美術館でやろうと。京都では、私が以前展覧会に関わったことがあったので、池田祐子さん(京都国立近代美術館・副館長兼学芸課長)にお声掛けして、京都国立近代美術館で開催することができました。

 

勝原

近代建築に関する研究者がこれだけ集まって、ひとつのテーマについて考えるのも非常に珍しいですよね。

 

田所

そうですね。分離派建築会の建築家たちについて研究されている方もいましたし、当時の東大の教育システムや、また同時代のヨーロッパの近代建築について研究されている方もいて、大正期の建築家が置かれていた時代状況など、広い視野で考えを深めることができました。

 

 

なぜ近代建築史を学ぶのか

古澤

なぜ近代建築史を研究したいと思ったのですか。

 

勝原

近代に限定しているわけではなくて、新しいデザインを考えるとき、現代世代を中心にして捉え過ぎないように、過去・現在・未来に対して意識を持つことが大事だと思っています。そのためにも、歴史的な視点を持ってものごとを捉える、ということが重要です。そして、建築史を学ぶことで、新しい見方が得られるのではないかと考えていますね。そこでは、学問領域としての時間軸(時代)や座標(地域)の区分は関係ないでしょう。日本大学で建築史の講義を番号(「建築史Ⅰ」など)で呼んでいるのも、この姿勢をよく表していると思います。

 

田所

出発点は、ポストモダニズムが全盛のバブル期に学生時代を過ごしたのですが、その頃の建築表現に対する「なにか違うんじゃないか?」という違和感が、研究のスタートポイントになったように思います。当時、建築の造形表現、デザインが、極端なまでに建築家の個性のようなものと結びつけられてしまっていて、そうしたデザインのあり方に疑念を抱くようなこともありました。そうした傾向とは異なる建築のありようはないのだろうか、と模索しはじめたことが、建築史に興味を持つきっかけになったのだと思います。

ヨーロッパでも、ル・コルビュジエやヴァルター・グロピウスが現れる以前の時代に何が起こっていたのか。この問題を見ていきたいと思い、ドイツの第一次世界大戦前の時代を研究テーマに据えました。そこでは、建築家の個性の表現といったものとは異なるモダニズムのあり方がすでに追求されていて、とても新鮮でした。

 

古澤

確かに、よく田所先生はポストモダンを批判する発言をされるのをお見受けしていましたが、それが研究の根源になっていたとははじめて知りました。

 

 

日本近代建築の先駆け

 

佐藤

田所先生から見て、どのあたりが近代建築の先駆けなんですか。

 

田所

分離派建築会は、日本でモダニズムの建築がいよいよ姿を現しはじめる、建築家たちの中に作家主義のようなものが生まれる、そのスタートになったようなものにも思われます。大正デモクラシーの時代における自由主義の興隆の中で、社会的にも文学的にも自我の確立などがよく指摘されていました。建築界においても、建築家による芸術意志について論じられるようになった時代でした。そのようなきっかけをつくったグループだったとも考えられます。

一方で、分離派建築会といっても、メンバーの建築家たちが共に活動していた時期は限られているんです。分離派建築会の全体像や後世に対する影響については、一般的な理解は共有されていますが、複数の観点からの個別的分析はまだ十分になされていない状況にありました。

 

勝原

関東大震災頃までの活動で、最後は自然消滅的な感じで終わりましたしね。

古澤:そうなんですね。建築家として別のベクトルで仕事をしていくようになったか、それとも、あくまで仕事は別だけど、思想自体は共有していたんでしょうか。

 

田所

そういうわけでもなかったように思います。関東大震災後は、建築・都市の復興がまずは目指され、復興が本格化すると、実務の仕事が増えていきました。石本喜久治(石本建築事務所創立者)は竹中工務店に入社していましたが、有楽町の朝日新聞社社屋や日本橋の白木屋百貨店の設計を手掛けています。山田守は、逓信省の営繕課で全国の郵便局・電信局などの設計の仕事をしていました。建築思想の展開という点では、共有というよりかはむしろ逆に、メンバーそれぞれが独自の道を歩みはじめるようなところがあります。石本は、インターナショナル建築会という京都の建築家グループにも参加したりしていました。

 

 

新たな視点で捉え直す『分離派建築会100年展』

 

田所

『神殿か獄舎か』(著:長谷川堯 1972年)が分離派建築会に関する先行研究としてよく知られていますが、各メンバーの活動や建築作品についての調査は限られたものです。時代背景や芸術・思想との影響関係を踏まえながらも、長谷川堯さんの独自の視点が強調されています。それに対し、私たちが行った展覧会では、〈田園〉〈彫刻〉〈構造〉〈構成〉といった個別のテーマで整理し直しています。長谷川さんの論点とは異なる、新しい捉え方を示すものと思います。

 

勝原

そもそも日本では、建築学科が芸術学部ではなくて、工学部の中に存在しているんですよね。彼らが卒業する以前の時代は、国のための建築をつくる人を養成することが第一に求められていたわけです。その中で、彼らは最初はなかなか理解されない。何回も展覧会などを繰り返していく中で、少しずつ世の中から彼らの新しい建築が認められてきた。

最初の目的はある程度は達成されたものの、建築様式の話とか、自分たちが置かれている教育機関の中での立場とか、葛藤があったと思うんです。日本特有の近代建築の動きとして、その点が研究会を通して描き出せたのではないかと思います。

 

佐藤

今回、分離派発足100周年ということですが、これからの100 年を考えたときに、今、彼らのことを考える意義や、なにか未来へつながるものはあったのでしょうか。

 

田所

研究会のはじめはそこまでやろうという想いもあったのですが、なかなか辿り着けなかったですね。現代建築の現状を捉えながら“未来へ”という視点へつなげていくのは、展覧会の主旨とはすこしずれてきてしまうと思っていた気がします。

 

勝原

分離派の建築家たちが残したものとして、聖橋や京都タワーなど、私たちが知っているランドマーク的な建築物が存在していますよね。それらと現在までのつながりを一つ一つ説明する必要があるのか、という点は議論しました。最終的には、あくまで彼らの約10年間の葛藤や軌跡を見せればよい、という結論になりました。そして、京都の会場では、はじめて来た人にも分離派のその先がわかるように、1番最初の展示室に、現存する建築物の写真をすべて撮り下ろして展示したんです。

 

 

『分離派』の葛藤

 

田所

展覧会の最終章でも扱われている『建築様式論叢』という論集ですが、分離派建築会が最後の展覧会を終えてから4年後、1932年に堀口捨巳と板垣鷹穂の監修によって発刊されました。分離派建築会のメンバーたちも執筆に加わっているのですが、その内容を見ると、当時の建築家たちが掲げるテーマがすでにさまざまな分野に及び、「過去建築圏」からいかに分離していったかということが読み取れます。

 

佐藤

本のタイトルに“様式”という言葉を使ったんですね。“様式”ではないものをつくろうというのが彼らのスタートだったのに。

田所

そうですよね。ここに来て、おそらく“様式”という語の意味合いが変わっていったのではないかと思います。堀口はその後、「様式なき様式」などという、独特の言い回しを用いたりします。ゴシックとかルネサンスなどという過去の建築様式のことではなくて、近代という新しい時代に即した様式をこれからつくり出していくんだ、というメッセージが込められているのだと思います。

 

古澤

グロピウスのインターナショナルスタイルと、ほぼ同じような意味で使っているのですね。

 

田所

そうかもしれません。この論集の序文がとても不思議なんです。「アカデミズムとジャーナリズムと云ふ二つの社会的勢力に対しては、唯だ諦念の微笑を以ってのみ傍観しよう」とあります。

ここで彼らは、当時の建築界をリードしていたアカデミーの勢力に対しても一線を画そうとしていた。また、ジャーナリズムという点に関しては、分離派建築会以降に結成された「新興建築家連盟」という建築家グループが、政府に対する反乱分子かのように新聞に書かれたことがあったんですね。その事件がきっかけになって、分離派建築会のあとに続く日本の近代建築運動がストップさせられてしまったという側面があります。

また、この論集の読者は一体だれなのか、という点についても、次のようにちょっと持って回ったような書き方をしています。「私たちがこの『論叢』を贈ろうとしている読者は、かかる社会的勢力に何等の要求をも感じない地味な心の持主でなければならぬ」といった調子です。「地味な心の持主」とはいったい誰のことを指しているのでしょうか。

これは私の考えですが、大正から昭和戦前期にかけて社会が大きく変化し、建築家に設計を依頼するクライアント(施主)たちもその社会的立場を変えていったように思います。資本主義が日本にも根づいてきて、新興のブルジョワジーや新たな中間層の市民たちが出現するようになった。彼らに代表される新しい社会的勢力に、建築家たちがどう対応していくかが、この時代の大きなテーマだったと思います。それまでは国家の仕事、公共建築を中心に建築家は設計していたのですが、商業主義の台頭という事態に、当時の建築家たちは対応していかなければならなかった。その解決策の一つとして、建築のデザインの選択肢をできるだけ増やす、ということが求められたのだろうと思います。ブルジョワジーたちの多様な好みに合わせて、日本風や西欧風、モダニズム風とか、さまざまな種別のデザインをあらかじめ用意しておこうとしたのではないでしょうか。

 

古澤

それで、『建築様式論叢』の編集方針として「成るべく多くのヴァラエティーに於いて、建築様式の考察に関係の深い諸問題を集めることであった」と記載があるんですね。

 

田所

そうなんです。さらに続きがあって、「なほ数多くの項目が必要であるに相違ない。然し、遺憾ながら事情がそれを許さなかった」とも書いている。

 

古澤

ここまで聞いていると、1932年とは思えないですね。1920年発足時は、「建築は芸術であらなければならない」と言っていたのに、末期においては真逆のテキストのように感じます。

 

田所

そうとも捉えられるかもしれません。建築における「芸術」が、かつての様式にもとづいたものではなく、建築家の「個性」のようなものに立脚するようになっていった。『建築様式論叢』に記されているように、バリエーションが多ければ多いほどよい、と。

佐藤

日本大学の記事なので、吉田鉄郎についてもおうかがいしますが、彼については分離派のメンバーたちと比較してどう考えていますか。

 

田所

吉田鉄郎は、またちょっと違う立場にありました。吉田鉄郎は山田守と共に逓信省営繕課に所属して、郵便局や電信局など近代国家のインフラとしての建築の設計を担っていた。国がクライアントの公共建築で、建築家の「個性」のようなものは、むしろみずから排除しようとしていました。逆に、近代建築の根本にある原理のようなものを追求しようとして、東京や大阪の中央郵便局のような名作を残しました。晩年には「平凡な建築」をたくさんつくった、などと回顧していますが、吉田の設計への対し方をよく示す言葉だと思います。

 

佐藤

逆に分離派のメンバーは、自我を持ったが故に、自分たちでクライアントを探さなければいけなくなったということですね。東大の学生たちだったら通常、省庁に就職するとか道があったはずだけれど、それをしなかったために自我を持つ必要があった。

 

田所

自我のようなものを持ったからルートを外れたのか、ルートを外れたから自我を持つに至ったのか、どちらが先かはわかりませんね。

 

勝原

東京帝国大学は近代国家確立のための官吏を養成するための組織としてできたんですが、結局、役所のポストがだんだん埋まっていきますよね。建築学科に限らず、最終的にあふれた人たちが、分離派と同じような動きをしていたと見られています。

 

 

分離派から学ぶ、これからの建築学生へ

 

古澤

分離派の研究を通じて、現代の私たちにはどのように応用できると思われますか。

 

田所

私は割と反面教師的に捉えていて、日本の建築家も、建築をつくる際の拠り所、その根拠を一体どこに求めるのか、そうした問題についてあらためて光を当てる人たちがまた現れてもいいのでは、などと思います。私たちもバブルの時代など色々経験してきました。建築家が社会に対して、「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(伊東豊雄 1989)というような構えを見せた時代でもありました。

 

勝原

創造の主体はなにかというようなことを、当時から今の時代も含めて、常に考え続けたいということかな、と思います。

 

田所

そうですね、今の建築家は、そうした問題意識を掲げている人も少なくないように思うので、皆で語り合える場をつくって、現代の社会、そして現代の建築が直面している課題を、もう少し共有させていくことが大事なように思います。

 

古澤

今は、社会貢献的な自我を全面に出していくというのがメインストリームですよね。“自我の確立”と言っている若手建築家はいないと思います。一方で、建築教育の場においては、「個性が大切だ」とよく田所先生もおっしゃっていますが、そのあたりの整合性はどのようにお考えですか。

 

田所

「個性」というよりも、さまざまな事象に対して自らの意志で判断できる「自分」というものを、まずは確立しないといけないですよね。大学で学ぶということは、究極的には、この点に関わるように思います。ただ、その自分と社会との関係性をどのようにつくり出していくか。場合によっては、少し自分を抑えて、場をつくったり開いたりしていく、というプロセスも必要になってきます。それもまずは、自分というものを確立しないとできないことのように思います。

 

勝原

大学って、社会から切り離されたシェルターみたいな場所。ここではどんなことをして失敗してもいいわけで、分離派の人たちがやったみたいに自分たちの建築を追求してほしい。さらに、それを世の中に知ってもらうための空間を大学内でつくってみたり。

そうしないと、どんどんプラクティカルな訓練ばかりになってしまう。社会に出てからいくらでもできることなので、大学の建築教育として取り組むべきことは、彼らの姿勢から学べるのではないかと思います。

 

 

 

*1受賞の概要は以下の通り。分離派建築会は、1920年に東京帝国大学建築学科を卒業した石本喜久治・堀口捨巳・山田守・瀧澤眞弓・森田慶一・矢田茂により同年に結成され、その後、蔵田周忠・山口文象・大内秀一郎が加わった建築家グループであり、日本の近代建築運動の先駆け。メンバーそれぞれの業績が広く知られているのに対し、10年に満たない活動期間におけるグループとしての活動実態や特徴について詳しい研究は行われてこなかった。このような状況に対して、田所辰之助、勝原基貴を含めた16名の研究者が分離派100年研究会を組織し、さまざまな機関に所蔵される資料の調査、8回に及ぶ研究会、8回のシンポジウムを開催。これらの活動を基礎に、大部な論考集である田路貴浩編『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』(京都大学学術出版会、2020年、全592頁)を出版。また、研究会の活動をもとに「分離派建築会100年 建築は芸術か?」と題する展覧会が、パナソニック汐留美術館(2020年10月10日〜12月15日)および京都国立近代美術館(2021年1月6日〜3月7日)により企画・開催。同展覧会は、モダニズム建築受容期の展覧会として、同時代の芸術作品や時代背景も併せて紹介され、多くの一般客も来場した。

 

 

編集=長尾芽生

写真=小島陽子[助教]

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